誕生日おめでとうございます-グッチ

  • 2011年03月23日(水)

さのっち様お誕生日おめでとうございます。

これからも親子共々ご指導を宜しくお願いいたします。

最低あと8年間はバスケットボール塾を続けていただきたいので、体調に気をつけて頑張ってください。

被災地に祈りを-球迫

  • 2011年03月13日(日)

今朝の熊本も快晴で静かです。
こうしていられることがどんなに幸せなのか。

世界各地から日本へ祈りが寄せられています。
皆で、がんばっていきましょう。

新幹線全線開通のCMです。
この先に、被災地があります。
皆で、ひとつになって、応援しましょう。

地震4-イマケン

  • 2011年03月13日(日)

 翌日。テレビによると、電車も動き出したようです。東京では余震もありません。ショウタをホテルに残し、8時過ぎに羽田に向かいました。

 飯田橋のJR駅も混雑しています。土曜日なのにサラリーマンらしい人が大勢います。昨夜帰れなかった人かもしれません。電車は再開したものの、減便・減速運転でなかなか進みません。普段なら1時間くらいで行ける羽田まで2時間半かかりました。

 空港には昨日飛行機に乗れなかった人が押し寄せ、混雑しています。便の変更のための列に並ぶこと2時間。ようやく帰りの飛行機の席を確保。列はますます長くなっていました。もう少し遅く来たなら、今日帰れなかったかもしれません。しかし、いつ帰れるかわからぬまま、昨日から空港の床にダンボールを敷き、災害用毛布にくるまって待っている人々も多くいるのが、悲しい現実です。

 飛行機の席を確保したのはもう、午後2時近く。朝飯も食ってなかったので、腹が減っています。ようやくカレーを食べながら、飲んだビールはおいしかった。

 そう言えば、東京に来る前は、合格したら、ショウタとお祝いの乾杯でもしようかと思っていたのに、1日目はアパート探しで遅くなり、昼飯が遅かったせいもあって、駅の立ち食いソバで済ませてしまい、2日目は地震騒ぎで酒どころではありませんでした。

 今回、楽しい合格発表の旅の予定でしたが、地震に遭遇し、一転、大変な旅となりました。東北の皆様のことを思うと、言葉もありません。一日も早い救済、復興を心からお祈りします。

地震3-イマケン

  • 2011年03月13日(日)

 駒場から歩き出し、途中、いくつかの公衆電話に長駄の列ができていました。やはり皆、携帯電話が通じないのです。私も羽田到着が絶望的になってから、状況報告の一報を入れようと思いましたが、公衆電話は今、圧倒的に少ない。ようやく午後7時頃、並んでいる人も少ない公衆電話を見つけ、自宅と職場に連絡を入れました。

 道端のコンビニ、ファストフード、カフェ、ラーメン屋等はどこも満員です。腹も減るし、休憩も必要です。ちなみに女子トイレも列ができていました。一方で、早々と本日閉店を決めたチェーン店もありました。なんと、2軒だけ見かけた大きめの自転車専門店は、おそらくかつてない大盛況を見せていました。

 多分、私が宿泊先として考えていたビジネスホテルやネットカフェもいっぱいでしょう。そこで、方針を変え、ショウタのホテルに行ってみることにしました。

 歩き続けること、ほぼ4時間半。飯田橋のホテルに着きました。「満員」の貼り紙があります。ロビーには人がいっぱいです。「息子の部屋に一緒に泊めてほしい」とフロントに頼むと、シングルをツインに差し替えて泊めてくれました。感謝。とりあえずは暖かい部屋と風呂とベッドにたどりつきました。余震はそれほどひどくなく、しかし、テレビはつけ放しのまま、不安を抱きながら寝ました。

地震2-イマケン

  • 2011年03月13日(日)

 駒場東大前駅から渋谷行き電車に乗ろうと思ったら、運転見合わせ中とのこと。―――この前後から携帯電話の通信状態が悪く、何件か留守電到着メールがあるのに、つながらない。どうも皆心配しているらしいのが感じられます。とりあえず、私は羽田空港に行って飛行機に乗らないといけないので、ショウタと二人、渋谷駅に向け歩くことに。途中で、線路上で止まってしまった電車から降りて歩き出す人々も見かけました。

 渋谷駅には徒歩30分余りで到着。駅前は人であふれています。電車は動いておらず、バスとタクシーは動いています。私はバスかタクシーで羽田に行くことにし、ショウタは歩いてホテルへ帰ることにし、二手に別れました。

 とは言うものの、バスもタクシーも長駄の列で、どれがどの列で、どこが最後尾かもよくわからない。これでは待つだけ時間の無駄と思い、とりあえず、歩きながらタクシーを拾うことにし、羽田方向と思われる方向に向け、歩き出しました。しかし、いくら歩いてもタクシーは拾えず、結局、飛行機の時間に間に合わないことが確実になりました。

 そこで、とりあえず今夜はどこかで一夜を過ごし、明日飛行機に乗ることとし、比較的土地勘のある新橋駅周辺へ向かうことにしました。

 歩道は歩行者であふれかえり、車道は大渋滞です。防災頭巾をかぶった子ども、ヘルメットをかぶったサラリーマン・OLもいます。平日のラッシュアワーに電車が止まる影響の大きさを実感します。建物等の被害は何も見かけませんでしたが、危険防止のため店舗立入りを見合わせている複数階建ての量販店はありました。途中、6時頃、街頭に面しているテレビを見かけました。東北の様子が放映されており、初めて地震の大きさと、世間が大騒ぎしていることがわかりました。

地震1-イマケン

  • 2011年03月13日(日)

 ショウタの合格発表にあわせて、入学手続きやアパート探しのために、3月10〜11日と1泊2日の予定で東京に行きました。

 11日午後、入学金の振込みや入学申込書の郵送を終えて、駒場東大前でタクシーを降りようとしたとき、地震にあいました。地面が大きく横揺れし、船に乗っているようでした。建物が崩れないかと思いましたが、崩れもせず、終わりました。その後、大学の事務棟で学生宿舎の申し込みをしている時にも、2〜3回余震がありました。職員の方も建物の外に避難しますが、室内の物が散乱するようなことはありませんでした。

 次に、大学生協主催の住まい探し相談会場で、前日からいくつか物件を見て目星をつけていたアパートの申し込みをして(学生宿舎とアパートの二股をかけています)、今回の上京目的が終了。私は羽田空港へ、ショウタは(もし不合格だったら引き続き後期試験を受けるつもりで、滞在予定が3泊4日なので)ホテルへと、向かおうとしました。

 大学の正門前で先ほどの不動産屋さんと偶然会い、お客さんをこれから物件案内に行きますとのこと。ここまでは、大きな地震はあったものの、さほど変わったこともない1日の終わりと思われました。

ありがとうございます-イマケン

  • 2011年03月13日(日)

ショウタ、おかげさまで合格しました。
お祝いメッセージ、ありがとうございます。

親父の背中・続報-イマケン

  • 2011年02月28日(月)

 山本浩之さんは、東京マラソンで「STOP!飲酒運転」のステッカーを貼った車いすで力走。3位でゴールされたそうです。昨年は優勝されていますが、今年は練習もきちんとできなかったでしょうし、成績は2の次。寛大君を心の中に思い描きながら一緒に東京の街を走りきられたのです。ゴール後、奥さんと手をとり涙されたそうです。

同級生たちのメール-イマケン

  • 2011年02月26日(土)

 先ほどの「親父の背中」に関連し、山本寛大君の同級生によるメールの輪が広がっています。このメールをできるだけたくさんの人に見てもらいたいと彼らは訴えています。記事を紹介したのも何かの縁。下記にメールを紹介します。彼らの訴えに耳を貸してください。

みなさんこんにちは。
私たちは多々良中央中学校の第35期生です。
私たちは大事な友達を大人の勝手なわがままで亡くしました。
ほんとに悔しいです。悲しいです。寛大の命返せって言ってやりたいです。
でも今寛大の願いは私たちが元気に笑っていられることだと思います。
今日はお葬式でした。
地元が一緒だった全員が参加し、涙し、悔やみ…そんなお葬式でした。
できることならもう1度寛大に会いたいそんな願いです。
電話してもメールしても寛大から返事はありません。
寛大は私たちの笑顔を見ることが何よりの支えになると思います。
今私たちができることは寛大のために飲酒運転撲滅を呼び掛けること。それくらいです。
これで寛大の力になれるのかは分からないけどこのメールをできるだけたくさんの人に
回していただけたら光栄です。
私たちの大好きな寛大の死を決して無駄にはさせません。
呼び掛けよろしくお願いしますm(__)m
多々良中央35期生
高校1年生。一同。

親父の背中-イマケン

  • 2011年02月26日(土)

 ご無沙汰です。明日は綾杉杯。がんばってください。

 ところで、久しぶりの新聞拾い読みネタです。少しだけバスケットにも関係があります。

 2月9日夜、福岡県粕屋町で、飲酒運転による交通事故で、高校生の山本寛大(かんた)さん(16)と同級生の皆越隼人さん(16)が亡くなった。

 山本さんの父浩之さん(44)は明日、東京マラソンの車いす部門に出場する。

 浩之さんは20歳の1986年、バイク運転中に車と接触して転倒、下半身にまひが残った。翌87年、車いすのバスケットチームに入り、2000年にはパラリンピックを目指して車いすマラソンを始めた。

 08年の北京パラリンピックで6位に入賞。09年の大分国際車いすマラソンで日本人最高の2位。昨年の東京マラソンは優勝し、今年は招待選手としての参加となる。

 「障害があっても、やり抜く姿を伝えたい」。浩之さんは、寛大さんと弟の2人の息子に「おやじの背中」を見せてきた。寛大さんはレースの日には車いす運びを手伝い「がんばれ」と声をかけてくれる優しい子だった。

 「あまりに突然で、理不尽な死としか言えません」。レースに向けて調整を始める矢先だった浩之さんは、何も考えられなくなった。悲しみに浸る間もなく通夜や葬儀、警察の事情聴取に追われた。

 そんなとき浩之さんは、寛大さんが来春の東京への修学旅行を楽しみにしていたことを思い出した。「修学旅行に行くことができなくなった寛大と、東京の街を走ろう」と思い至った。「記録ではなく、寛大があこがれた東京を、寛大を肩に乗せて走りたい」。

 浩之さんは、いつも歯を食いしばり、うつむき加減で車輪をこぐ。でも東京マラソンは顔を上げて走るつもりだ。「寛大と一緒に、東京を散歩するのだから…」。悲しみに耐え、父は車輪をこぐ。

 ネタ元は2/23付西日本新聞です。