スカイ・ウイードの解釈→正解!!-さのっち

  • 2009年05月20日(水)

イマケンさんの「スカイ・ウイード」についての解釈が、正解ということで連絡がありました。

雑草のごとく強く根を張り、例え切られても切られても天高く伸びていく…という願いがあると付け加えられました。(笑)

スカイ・ウイードさんもホームページがあります。
(http://blogs.yahoo.co.jp/skyweedsc/MYBLOG/yblog.html)
そのなかで、バーベキューの話があり、コソッと参加しようと企んだんですが、チト無理でした。(苦笑)

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下記の文章は、前回載った文章です。(参考までに…)

スカイ・ウイードについて-イマケン2009年03月22日(日)
 トライアンフ・ベアーズ・フェスティバルに天草からゲスト参加の「スカイ・ウイード」。「ウイード」っていうのが変わった名前なので調べてみました。
 最初、山口百恵の歌「ロックンロール・ウイドウ」を連想しましたが、「widow」は「後家、未亡人」の意味。(歌のほうは、ロックかぶれで外で遊びまわっている夫に愛想をつかし、「夫はとっくに死にました」と言ってやる!・・・みたいな内容です。)「空の未亡人」とくれば、飛行機の名前なんかにはぴったりそうですが、バスケチームにはちょっとねえ。「バスケットボール・ウイドウ」なら、女子チームのネーミングとしていい感じかもですね。
 しかし、表記は「ウイドウ」でなく、「ウイード」だし。・・・で、「weed」という単語もあり、こちらは「雑草」の意味。「スカイ」と続けると、「空の雑草」??これもちょっと変かな、と思いましたが、ちょっと待って。空は「天」、雑草は「草」。つまり「天の草」→「天草」。こういうことでしょう。スッキリしました。ちなみに「雑草を抜く」は、英語で「dig (up) the weed」。単に引き抜くのでなく、掘り上げ(dig up)なきゃ抜けない。しっかり根をはっていますからね。地域に根をはった、根本のしっかりしたバスケットをするチームだと思います。これからもがんばっていただきたいと思います。
 ちなみに我が家も夫婦そろって天草出身です。

部活とのかけもち-イマケン

  • 2009年05月17日(日)

 「女子の奮闘」の記事で、部活とのかけもちのことが出たので、少し整理しておこうかと思います。

 トライアンフスクール、ベアーズ塾は、基本的に部活とのかけもちOKです。というより、頻度が少ないので、部活の補充として来る子がほとんどだと思います。(キッズは別ですが。)

 チームのほうが問題でして、まず、トライアンフチームからいきましょう。ミニバスのほうは、クラブチームとして、協会登録ができます。

(ただし、5つ以上の小学校からの集まりはダメということで、「4校枠」と呼んでいます。最初の頃のトライアンフチームは単一小学校の部活を飛び出したメンバーだったので、問題なかったのですが、徐々に他校からの子が増えて来ると、4校枠により、メンバー登録で頭を悩ますことも出てきました。)

 したがって、トライアンフチームで協会登録すると、部活のほうでは登録できないので、公式試合に出るなら、どちらかを選ぶ必要があり、自然と部活との並立は通常ないということになります。

 ベアーズチームのほうですが、こちらはクラブチームとして中体連に登録することはできません。(今は、登録はできるけれども、試合には出られない状況のようです。)で、最初は単一校だったし、チームとしての活動もそれほど多くなかったので、(最初はベアーズ塾とベアーズチームという区別も曖昧だったのではないかと思います。)部活とのかけもちでやっていました。

 そんな中、自主的に部活を辞めてベアーズ1本に絞ったのが、愛知学泉大のTARO君でした。

 そして、ある事件があって、S中の子は部活かベアーズかを選択することになったのです。(この選択をした後くらいから、ベアーズチームとしての活動が徐々に活発になったように思います。)

 S中以外については、部活とのかけもちもOKでした。ただ、ベアーズ塾、チームの活動の頻度が増えると、部活との両立は大変になるので、部活に入っていても、競合したらベアーズを優先するとか、部活の了解を得るようにという条件を出すようになりました。

 そういう中から、部活と両立して奮闘する女子が現れたり、M中からは、一気に男子数名が加入したりしました。

女子の奮闘-イマケン

  • 2009年05月17日(日)

 トライアンフチーム、ベアーズチームは、基本的に男子のバスケチームです。(トライアンフの結成当初は女子チームも想定し、女子用ユニフォームも作っていたので、キッズの大会で使ったという記憶があります。)

 ベアーズチームのほうには、しかし、それでも入りたいという女子が1学年に1人くらい入って来ました。男子に混じって男子と同じ練習を行いますが、試合に出れる保証はありません。出たとしても、男子相手の試合です。そういう環境に自ら飛び込んで来るだけ、意識が高く、技術もあり、そんじょそこらの男子にも引けをとらない子でした。

 部活とのかけ持ちで大変だったけど、みんながんばりました。足を手術して動けなくても、片隅で上半身だけ使って練習を続けた子。自分から練習ノートをつけて、「遥かかなたへ」の練習ノートのお手本となった子もいます。

 結局、練習試合やカップ戦では、結構試合にも出てもらいました。(チームの人数も少ない中、重要な戦力なので、出てもらわないと困るというほど、がんばっていました。)

 そんな中のひとりは、さのっちの推薦(部活の先生からの依頼だったと思います。)で高校に入学し、今キャプテンをしています。

 (先日の「再生工場」に書いたO君も、確か、さのっち推薦で高校へ入ったのではないかと思います。)

 なお、トライアンフチームにも女子が一時加入した時期もあります。

大目玉と練習メモと-イマケン

  • 2009年05月09日(土)

 4月初めに、大目玉の話題が出た後に書いていた原稿ですが、先日、「遥かかなたへ」の練習日誌の話題、その後もファイルの話題が出ており、これとも少し関係があるかなと、表題に練習メモを付け加えました。

 長男SHOTAがトライアンフチームのキャプテンのとき、おそらく声が小さいとか、動作が遅いとかが原因と思いますが、練習冒頭にさのっちが大目玉。「今日は、おれは指導せん!勝手にしろ。」となりました。

 仕方なく彼は2時間、みんなを引っ張って練習させて終わり、帰りました。

 小6で2時間の練習を仕切ったことへの感嘆とともに、井田さんは「SHOTAも意地っ張りよねえ。」との感想をもらしたのですが、結構不器用な彼は、こんなときどう対処すべきかわからず、「勝手にしろ」の言葉を真に受けて、困惑しながらも、通常やっていた練習をやるしかなかっただけだと思います。

(ただ、自分なりに練習内容をメモし続けていた(ただし、彼のメモは汚い!)ので、やるべき事はある程度わかったのでしょう。)

 その後、中学のベアーズチームまで、さのっちと長くつきあっているので、このような場面は何度かあり、対処方法の学習は大分したと思います。今も高校でキャプテンをやっていますが、高校でも先生からは大分、しかられながらここまでやって来たようです。

キャプテン-さのっち

  • 2009年05月07日(木)

ベアーズ関係者が、高校のキャプテンをしているのが、わかっているだけで3名。

本当に彼等、彼女等は、条件の悪い中、頑張ったと思います。

私の力は、30%くらいです。

保護者の力が40%。

本人の力が30%でしょうか。

そして、私の30%も、保護者と本人次第で、0%にもなるし200%にもなるようです。(笑)

また、バスケットだけじゃなく、勉学のほうもいい成績を発揮してくれています。

文武両道の世界をベアーズで追求できることは、とてもうれしいことです。

再生工場-イマケン

  • 2009年05月06日(水)

 クリスマスカップのとき、井田さんが遅かったのは、午前中、トライアンフキッズの指導があってのことでした。失礼しました。どんどん、記憶力が減退しているイマケンです。今後も皆さん、間違いは指摘してください。

 さて、プロ野球の楽天・野村監督が先日、1500勝をあげました。様々なチーム、様々な選手、そのとき与えられた環境の中で、ベストを尽くして「勝ち」を積み上げて来た結果だと思います。しかし、負け数は1500以上あり、決して順風のときばかりではなかったこともうかがえます。そんな野村監督、他球団を辞めさせられた選手を拾って復活させたことから、「再生工場」と呼ばれたこともありますね。

 ところで、またちょっと横道的な話です。
 トライアンフ、ベアーズは、我が家が加入した2003年頃から活況を呈し始め、スクール及び塾は、J小、S中以外の子がどんどん増えて来ました。トライアンフは小学生、中学生、キッズとクラスを分けないと、芋の子洗い状態で練習が大変なことに。

 ベアーズも、小学生、中学生、チビーズ(弟・妹ちゃん)もおり、体育館全面使って練習する状態。

 「FARRAGO先輩」さんとの出会いからHPを開設したり、TVでも放映(テレ朝系の九州版ニュースの各局特集コーナー)された効果もあったと思います。

 そんな状態が2007年頃まで続き、色々な弊害が出てきたりして、2008年から規模を縮小し、また、地域総合型スポーツクラブと合体し、再出発したという感じでしょうか。

 さて、本題のほうに。
 スクール、塾の盛況と裏腹に、トライアンフチーム、ベアーズチームのほうは、練習頻度も多いし、保護者も大変で、実は入って来る子は少ないのです。特に中学生のベアーズチームは公式試合には出られず、選抜も受けられないし、部活を選択する子が多いのは仕方ないことだと思います。

 そんな中、部活を辞めて途中からベアーズチームに入って来る子もいました。大体、部活では活躍の場のない子が多かったです。

 H君とO君も同じ中学の部活からの転向組。入った当初はスタミナもないし、基本技術も身についていませんでした。しかし、チームになじみ、真面目に練習をしているうちに、徐々に上達してチームに不可欠なメンバーとなり、チームに多大な貢献をしてくれました。

 また、保護者の方ののめり込み方も素晴らしく、ベアーズの試合が面白いからと、商売そっちのけで応援に駆けつけて来られました。(差し入れのお寿司がおいしかった。湧心館高校近くの「いずみ寿司」さん。)

 部活で居場所をなくした子に、皆と同じ練習をさせ、レベルアップさせて、試合に使う。ベアーズ再生工場の話でした。

クリスマスカップ-イマケン

  • 2009年04月30日(木)

 ベアーズチームの活動は、長男SHOTAらの年代が中1として参加してからどんどん活発になって、練習試合や遠征の機会も増えていきました。

 そんな中のひとつに、阿蘇クリスマスカップ(中学生の大会)があります。異端である中学生のクラブチームの参加を快く受け入れてくださった、阿蘇バスケットボール協会に感謝。

 さて、大会に参加できると喜んでいたところ、さのっちのおばあ様が亡くなられ、1日目(3日間にわたる大会です。)は参加できないことになりました。井田さんも昼までは仕事で無理、仕事が終って駆けつけても、2時か3時頃でしょう。

 とりあえず、その前の試合で困るのは、ベンチに入るコーチ、そして割り当てられた帯同審判です。

 急遽、ベンチに入ることになったのは、自身はバスケ経験はないが、保護者としてバスケの見聞・識見が豊富なFパパ。帯同審判は、長男SHOTA。(市のミニバス大会ではバッジをもらって、笛を吹いていました。)

 結果、なんとか乗り切れたのですが、さすがのFパパもベンチは極度に緊張し、流れの悪くなったところで、タイムアウト(確か1回だけ)をとるのが精一杯で、「指揮」どころではなかったようです。胃が痛くなったとか。

 SHOTAのほうは、審判はなんとかこなしたが、審判でも試合でも目一杯走ったために、第二試合目終了とともに、足がつって、両脇を抱えられて引き上げました。(2回目の審判は、バッジはないが、練習試合等では本格的に吹いていたK-SUKEがバトンタッチ。)

 そんなこんなで、思い出深いカップデビュー戦でした。

MKTの膝詰談判-イマケン

  • 2009年04月29日(水)

 隙間なく書き込んだ記事を、見やすく整理していただいた、さのっち、ありがとうございます。

 しばらく、昔話シリーズを続けてみようかと、思います。かつてのトライアンフ、ベアーズの姿を知らない保護者が大部分となってきましたので、文字に残しておくことで、いくらか参考になればと思いまして。(かつて、さのっちとそんな立ち話をしたことがあるのですが、そのまま棚上げになっていたという経緯もあります。)

 SHOTA、K-SUKEの同年代のメンバーが中学に上がるとき、部活かベアーズかの選択を迫られました。トライアンフでも同じですが、決まった体育館を持たないので、ベアーズを続けるためには、保護者にあちこち、送迎をしてもらう必要があります。お金もかかります。

 しかも、当時は今のように週2、3回という回数ではなく、ベアーズ塾、ベアーズチーム、おまけにトライアンフとの合同など、回数も多かったのです。保護者も大変でした。

 そこで、家庭の事情がある子は、部活に入る道を選びました。MKTの両親も、家庭の事情から部活に入れたいということで、一旦はベアーズをあきらめました。

 しかし、どうしてもあきらめきれないMKTは、両親の前に座り、「どうしてもベアーズに入りたいので、お願いします。」と直談判し、再びベアーズに戻って来ました。近隣の保護者も送迎には協力しました。

 あれだけの思いを持ってベアーズに入ったのは、彼だけでしょう。

K-SUKEのケガ-イマケン

  • 2009年04月27日(月)

 昔話を、もうひとつ。

 先日、長男SHOTAの昔話を書いたとき、同級生K-SUKEが福岡に練習に行って、足を骨折して帰って来た話を書きました。

 バスケットは、ラグビーやサッカーに比べるとケガがないように思いますが、接触プレーがあり、予想以上にケガをするスポーツでした。

 重量フォワード系(肥満でなく、ガッチリということ)で、体を張ったプレーをするK-SUKEはその分、SHOTAよりケガが多かったようです。SHOTAの歯とK-SUKEの頭が激突して、SHOTAの歯が負けたこともありました。

 2人がベアーズチームに入っていたときのことですが、・・・ここで、またちょっと横道へ。

 もともとベアーズは、さのっちが、今は医者の卵である息子さんの部活の補充練習として始めたものらしい。(このへんの経緯も、間違いがあれば、フォローをお願いします。)で、少しずつ輪が広がって、トライアンフともつながって、SHOTAがトライアンフに入った頃は、ベアーズは小学生から中学生まで、もっと上手になりたい子たちが一生懸命練習していました。

 で、トライアンフ卒業生(県大会2位になったメンバー)の中学生を中心にベアーズチームが結成され、さのっちが目指すバスケットの実践に取り組みました。

 なお、その後、事情があって、母体となるS中学校部活のメンバーについては、部活かベアーズか、どちらかを選択させる試練があり、チームメンバーは減りました。(部活を選択した子らも、悩んだ末、トライアンフ卒業生(当時S中校区生が多かった)で、部活を希望する子たちの受け皿が必要だという考えもあったようです。)

 そしたまた、元の話に戻りましょう。

 そんな中に1年生として加入したSHOTAたち。

 この頃、ベアーズチームとしての活動が活発になって、練習試合や遠征も多くなりました。

 ある日、大牟田あたりに練習試合に行ったときだと思いますが、K-SUKE、またもや負傷。その原因は、試合ではなく、待機中に体育館の壁に取り付けられた消火栓か何かの出っ張りに、思いっきり頭頂部をぶっつけての、出血。

 後からビデオを見せてもらいましたが、メンバーも少ないので、少々のケガで引っ込める訳には行かず、真っ白なバンソウコウを頭に張ってプレーする姿は、痛々しいというよりも、正直笑えました。(ゴメン。)
 
 結論。バスケットも、格闘技である。

二男のこと-イマケン

  • 2009年04月26日(日)

 井田さんが、妻に、小生の昔話が好きだからもっと書いてと、言われたそうです。

 長男SHOTAが最初に入ったし、色々初めての経験が多かったし、途中からは私が単身赴任で県外に出たために、どうしても長男のネタが多いのですが、今日は二男YUTAのことを書いておきましょうか。

 まず、知らない人のために言っておきますが、二男は長男と性格が大分違い、屈折系です。

 長男がトライアンフやベアーズで練習しているとき、二男はその横でパパさんたちにバスケットボールで遊んでもらったりしていたのですが、「トライアンフに入らんか」と言われても、言下に「イヤです!」とキッパリ断ることができるヤツです。

さのっちに対して「イヤです。」とか、「なんでですか。」と躊躇なく言える子どもは、多くはいません。

 小4で、部活選択の時期になると、さっさとサッカー部に入り、ウエアや用具もひととおり買い揃えて、小生も、KKウイングまで県大会の観戦に行ったり、合宿にも行ったりして、このままずっとサッカーで行くものと思っていました。
ところが、あるとき、急にトライアンフに入ると言い出しました。

 なぜ、急に方向転換したのかというと、「みのうカップ」というカップ戦がカギだったと思われます。

サッカー部には入りましたが、練習のない時は二男・三男だけを家に置いておくわけにもいかず、依然として長男の練習や試合に連れて行っていました。

「みのうカップ」というのは、福岡県の旧浮羽郡(久留米市の東のほう。みのう耳納連山のふもとに広がる。)周辺で行われるカップ戦で、トライアンフチームは宿泊付きで遠征していました。

ただ、その時、我々は新参者で、ベテランの保護者がたくさんおられたので、長男だけ泊めて、私達家族は日帰りで通いました。浮羽郡には筑後川温泉郷という温泉地があり、大会参加者はそこに格安で宿を手配していただいており、温泉地なので結構良いホテルでした。YUTAはそこに泊まれるものと思ったようですが、「私達は帰るよ」となったので、残念そうでした。

おそらく、あのホテルに泊まりたいという気持ちが、トライアンフに入る大きなきっかけだったと思います。

まあ、自分達にとっては、兄弟とも同じクラブに入れば親も動き易くなるので、当然同意。

ただ、もっと早い時期にそうすれば、無駄な出費もせずに済んだものを・・・という、若干のわだかまりは残しつつ。

 体は横にデカイのですが、もともと身体能力が高いわけでないし、加入が遅れたせいもあり、バスケもあまり上手というわけではない。

足も遅い。しかし、6年生になるとメンバーも少ないこともあって、とりあえずスタメンに。

ここで、少し横道に行きます。

 そもそもトライアンフは、クラブチームと名乗っていますが、最初はJ小の部活メンバーから始まったものらしい。

(人づての話の記憶をたどっているので、間違いなどあったら、どなたか後でフォローをお願いします。)

J小の部活練習を補強するために始めたもの。で、そのときのメンバーが中心になっている時がいわば第1期で、最強(全国大会をねらっていたが、残念ながら県大会2位)の時代でした。

SHOTAとその1つ下くらいまでは、第1期のメンバー(保護者を含む)も残ったりしているものの、戦績も徐々に下降し、メンバー数も減少して来ており、いわば第1期の末期。

そして、YUTAの頃には、段々新しい子たちが入って来て、J小以外の子が多くなってきたいわば第2期。

チームメンバーも減り、チームとしての存続の道をそろそろ真剣に考えなければならなくなってきた頃。

 この年は、戦力的に落ちていたのであまり過大な期待はしていなかったのですが、学童五輪においては、予想外の活躍で勝ち進み、いつの間にかベスト8くらいまで行ってしまいました。

しかも、YUTAはそのとき夏カゼにかかり、ベンチで熱冷まシートやら氷嚢で熱を下げつつの試合。

相手は「なんでこんな奴らに・・・」と思っていたのではないでしょうか。でも、こっちはこっちで、こいつを引っ込めるわけにはいかず、必死の状態だったのです。

私自信は単身赴任中で、現場に立ち会ってはいないのですが、妻からこの話を聞いたときは、情景が目に浮かび、おかしかったですねえ。

 そんなYUTAは、中学でもベアーズチームを選択し、3年生のラストゲーム(全九州クラブチーム大会)では相手チームから「エース」と呼ばれるまでになりました。

確かに体格的には、エースです。兄貴よりも横幅はある。

また、さのっちとの長いつきあいで、さのっちイズムの一端を覚え、入りたてながら、高校の部活練習が「甘い」と言えるまでになったし、性格も屈折系の度合いが大分、まっすぐ方向に向いて来ました。

高校の先生からは、
「プレーの質は高い。ただし、体重を落とせ。」と言われたそうです。

(ちなみに、長男は1年生時、太れと言われました。)