今日、テレビで見ました。
駅のホームにバスケットのゴールがある。どこでしょう?
答えは「能代駅」。
「リゾートしらかみ」という列車に乗ると、5分間の停車時間にフリースローをし、ゴールすると、特製の木製はがきをもらえるそうです。
さすがは、能代工業高の地元、バスケットの街です。
車での送迎が必須のトライアンフ、ベアーズ。安全運転は重要です。先日、遅れて練習に来た保護者の方は、聞けば法事があったとか。送迎があるので、ビールも我慢してこられたそうです。偉い。
さて、2〜3日見ない間に、さのっちボイス、ケイジャーズニュースとも多数更新されてるではないですか。
私も更新しとこうっと。
タイトルの自子中心主義は、7月14日付熊本日日新聞に、神田正利大阪大教授が、「イチャモンを超えて〜学校と親の新たな関係〜」という連載の中で使われている言葉です。
保育園の劇で桃太郎が16名出てきて、2名の鬼をやっつけてすぐに終った。先生は親への配慮から配役がアンバランスになり、脚本作りに苦労する。「自分の子だけ良ければ」という「自子」中心主義がはびこり、結果的には、幅広い経験を積み、将来の学校・社会生活に備えるという、大切な子どもの勉強の場を親が奪っている。―――「自己」を「自子」と書き換えたネーミングは、言いえて妙です。子どものためを思っているように見えて、実は自己愛の延長なのでしょう。
先生の指摘は、その原因にも及びます。少子化、核家族化の進展とともに、個々の家族が孤立し、お互いを干渉しなくなった。昔なら、どこかの親が変なことをしたら、誰か他の親が「袖を引く」という行為をして、親同士で行き過ぎを注意しあった。それがなくなっている。
授業参観で、親がぺちゃくちゃしゃべって、うるさいが、誰も注意する人がいないので、先生が注意せざるを得ない。先生の仕事は、子どもに注意することであって、親への注意は、先生の本来業務の範囲外だ。しかし、否応なしに範囲外へ踏み出さざるを得ない。誰も、そのことをやってくれないから。
ケイジャーズニュースにも書かれてましたが、我々の親の世代は、生活に大変で子どもの学校生活などまで関われなかった。しかし、家庭や社会のルールは、暮らしの中できちんと教えていましたね。
私達は、できれば袖を引く親、少なくとも袖を引かれないような親でありたいものです。
トライアンフ、ベアーズの活動も車での移動があってからできることです。
バス事故の報道の直後に私と井田さんと話、トライアンフ、ベアーズ関係者に安全運転のメールを一斉メールをしたしだいです。
ハンドルをにぎったら、まずは、安全運転。
事故は、一瞬にして、人生を変えてしまいます。
被害者になっても、加害者のなっても、いろんなしがらみが残ります。
事故にあわないよう、運転の前から心がけることも大切です。
安全運転を…。
福田太郎君、日本一おめでとうございます!
で、本日の本題ですが、高校野球の強豪、柳ヶ浦高校野球部のバスが、甲子園大分県予選初日に、事故を起こすという痛ましいニュースがありました。
野球部ではないですが、高校部活現役の我が家としては、考えさせられることがありました。
まず、事故が高校教師の運転ミスだった点について。
高校に限らず、部活は教師のボランティア精神のもとに成り立っているという現実があります。今回の件でも26歳の副部長(教諭)は、昨年秋に大型免許を取って現在に至っていたようですが、生徒の移動のために免許を取ったのでしょうし、経費を節約しながら部を強くするために、あちこち試合へ行くために、自らハンドルを握っていたのだと思います。部活を担当しなければ、余計な負担はないのですが、部活を担当したために、時間外や休日も部活に縛られ、バスの運転までやることになる。
過失はあったのでしょうが、一方的に責める気にはなれません。
次に、亡くなったのが奈良県出身の生徒だった点。
甲子園に行きたいというのは、球児の夢です。そのために、少しでも可能性のある高校へ行くというのは実態としてあります。熊本にもたくさん来ています。彼も柳ヶ浦に来なければ、事故にあうこともなかったかもしれない。しかし、大分に来なければ、奈良では甲子園には行けなかったかもしれない。純粋な県代表にこだわる人もいますが、強くなればなるほど、寄せ集めになるというのは、残念ながら、高校スポーツの現実です。
彼は、そのような現実の被害者ではないでしょうか。
と、ここまで書いたところで、井田さんから、「送迎には十分注意して」というメールが届いたようです。
私の職場でも、これを教訓とするよう、ミーティングで注意しました。
ゆとりのある運転計画、制限速度を守る、そして全席シートベルト着用。
特によその子も乗せているときは、皆さん注意して事故のないようにしましょう。
ウォーキングの途中、ふと思いつき、家に帰って調べてみました。
長男のミニバス時代、熊本市の選抜チームで一緒だった子の苗字が「とも●●」君。その子のお母さんと妻が付き合いを続けていて、「とも●●」さんという名前は、以前から聞いていましたが、漢字では「友●」と書くのだろうと勝手に思っていました。先月、二男のW高男子バスケ部で保護者会会長(息子さんはキャプテン)となられていた「とも●●」さんの、保護者会総会の案内文書で、初めて「塘●」と書くことを知り、「変わった漢字だな」と思ったのですが、そのときはそのまま。
歩いている時に、そう言えば干拓地で見かける字だなあと思ったのです。天明体育館近くにも「銭塘」(ぜんども)という地名があります。八代や、以前住んでいた荒尾・玉名周辺でも見かけた記憶があります。調べてみたら、「堤防」の意味でした。干拓地に堤防はつきものです。
上熊本行き市電の電停にも「杉塘」(すぎども)というのがあります。こちらは、干拓ではないけれども、井芹川の堤防で杉並木になっていたもののようです。
また、「水門の陰で雨宿り」と書きましたが、「水門」はもっと大規模な施設で、私が雨宿りした、堤防の横っ腹に水路を作って調整用の門を付けたものは、「樋門」(ひもん)と呼ぶのが正しいようです。
今回は、言葉の雑学でした。
日曜日の午後、天明体育館でトライアンフの練習がありました。わが三男は趣味と体力作りと割り切っているので、ずっと練習を見守ることもないかと思い、ベアーズがあんなに熱い練習をやっているとは露知らず、前半、ウォーキングに出かけました。
周囲は田園地帯なので、歩くには、良い環境。緑川の河畔を歩こうと考えて、体育館→川口小→川口漁港→平木橋→国道501号→体育館のコース(といっても、わかる人は少ないでしょうが)へ。
田植え直後の田んぼでは、「土の匂い」を懐かしく思いました。泥田はこんな匂いだったんだよなあと。
緑川下流は、干潮のためもあってか、予想外に、川の「水」があまり見えず、ヨシ原が広がっていました。
そのヨシの中には放置された漁船も多く見られました。生きている漁船(?)は、漁港以外の場所でも、自家製の桟橋(高さ2m、長さ10m程度はあろうかという立派なもの)を川に突き出して、結構たくさん係留してありました。
途中でにわか雨に遭い、水門の陰に雨宿りしました。雨宿りっていう言葉も、最近は聞かないですね。
結局、1時間半歩きました。いつも車に乗ってばかりですが、たまに歩くと、小さな発見があります。
(秋の健康診断で、メタボチェックに引っかからないためにも、歩かなきゃ。)
久々にトライアンフの練習を見ました。
途中から見たのですが、一般小学生と、アドバンスあるいはベアーズの小中学生の2班に分かれての練習。
最近の「さのっちボイス」を読んでいて、ベアーズが大分充実してきているように感じていましたが、確かに人数も増えたけど、練習が熱い。声出し、きびきびした動作と、一生懸命さが伝わって来ます。
うちの長男たちが、ベアーズチームでがんばっていた頃を久々に思い出しました。今後が楽しみです。
7月1日、人事異動がありました。
私は、おかげで異動なし。自宅通勤3年目に突入しました。通常、2年くらいで異動があるので、心配していましたが、ラッキー。しかし、来年はもうダメでしょう。来年以降は、異動になり、当分、単身赴任の予定です。
この1年、また、よろしくお願いします。
最後に、プライベートの部分にも、味わいのある言葉が出てます。
「私は少し日本人だ。まあ、ボスニアか。私はボスニアより日本の方が長い。ボスニアにはそんなにいなかった。昔はいたが、それは今のようなボスニアではなかった。」
「米を食べなくてはならないのが問題だ。ご飯。昔は食べ過ぎて、今は食べられない。」
「(脳梗塞で倒れたとき)日本人は素晴らしかった。多くの日本人から手紙をもらった。うれしかったし、驚いた。感謝しなければならない。これが私の命を救った。家から遠い国でこういうことが起きると、なぜだろうと考える。そんなに外国人のことを心配してくれたのは、私が人生で何かに成功したということだろう。なぜかわかっていなければならない。そうすれば、また繰り返すことができる。生き続ければ何が起きるかわからない。」
引き続き。今度は監督等についての発言。
「今日のサッカーは戦いだ。すべては生き残り競争だ。カネと戦いだ。残念ながら現実だ。多すぎるプレッシャーに多すぎるストレス。監督も常に重圧の中にあるし、クラブ会長もそうだ。スポンサーもだ。なぜならお金を払わなければならない。」
「監督の同僚について話すのは好きではない。どの監督もチームが良くなるように全力で頑張っている。みんな勝ちたいからだ。一部の人は成功し、一部の人は成功しない。」
「サッカーは日本でとても人気がある。環境は良くて、スタジアムもできたばかり。観客も多い。若い選手もたくさんいる。あとは大きな成功を待っているだけだ。ほかに何を望めるのか。ロナルドを買うことはできないのだから。努力していればわれわれにもロナルドが生まれるかもしれない。」
「監督はストレスが多すぎる。サッカーを見るのはストレスが多すぎる。悪いプレーを見てもどうしようもない。怒らなければならない。それはつらい。でも、すべてが良くなったら、もう1回やってみてもいいかもしれない。」
元サッカー日本代表監督イビチャ・オシム氏のインタビュー記事が、6月28日の熊日新聞に載っていました。洞察力、皮肉、ユーモア。独特の語り口が好きです。勝手ながら転載しちゃいます。共同通信さん、見逃してください。
サッカーについて、語っているのですが、バスケットにも通じる部分があると思います。
「もっとコンパクトに速く、組織的にプレーしなければならない。」
「中村俊、遠藤、中村憲、みんな素晴らしい選手で個人的な能力も高い。3人ともリスクを恐れず、即興性もあって、サッカーをよく理解している。いつも新しいアイデアがある。」
「日本選手は、すべての選手が平均的。才能のある選手は早い段階で新聞に取り上げられ、スターマニアが出て、速くスターになりすぎて駄目になってしまう。選手が育つには長い時間が必要で、辛抱も必要だ。」
「サッカーも学校のように勉強しなければならない。退屈だが、練習で何度も同じことを繰り返さなければならない。」
「日本選手は技術的に弱い。多くの人は技術があると思っているが、ブラジル選手のようにボールを浮かせるとか、止めるとかは必要ない。サッカーはそれだけ速くなった。常にスプリントをして、ダイレクトでプレーしなければならない。」
「日本の選手は小柄なのだから、もっと走らなければならないし、動かなければならない。すばしっこくなければならない。日本の選手は闘争心があって動けて、技術的にもまあまあだが、問題は息が続かないことだ。」
「練習でもアイデアがなければならない。日本人はよそのまねをしすぎている。自分を向上させようとしていない。それも日本の伝統なのだろう。ほかのところで優れているものを取り入れようとする。日本人はドイツ人や英国人にはなれない。それは受け入れた上で発展しなければならない。」