石橋2題-イマケン

  • 2014年10月26日(日)
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大牟田お散歩日記です。

今日は古い石橋を巡るお散歩です。

まずは、「早鐘の眼鏡橋」。(早鐘は地名。)

これは単なる橋ではなく、水道橋。熊本矢部の通潤橋を小規模にしたようなものです。

大牟田川の水を旧三池藩西方に広がる大牟田地区(「牟田」とは、湿地とか田んぼの意味で、かつては未開の湿地帯だったものを干拓により徐々に耕作地にしてきたと思います。)の農地まで届けるように、築いたもので、形が長崎の眼鏡橋のように2連のアーチ構造を持っています。

今はもう水は通していないようですが、戦国時代あたりからこの形を残していることがすごい。

なお、施設管理を近くの米屋さんに委託しており、そこからカギを借りて来ないといけないのが残念なところ。(もっとも、小生、カギなしで隙間から行きました。)

続いて、勝立(かったち)から、三池街道の櫟野(いちの。イチイガシのある丘陵の意味かな。)を経由して、熊本県の荒尾市岩本の石橋へ。

三池街道は以前書いたように、南関→三池→瀬高→柳川とつながっていました。

岩本はその街道の熊本と福岡の境界にかかる石橋です。

番屋があって国の間の往来を取り締まっていましたので、当初は橋などなく、間に流れる関川(諏訪川の支流)を徒歩で渡るしかなく、大雨が降ると足止めをくらい、渡れなかったので、陳情を繰り返し、ようやく橋を作る許可をもらったそうです。

作者は皇居二重橋を作った橋本勧五郎ではないかとも言われますが、実際は不明です。

なお、これも眼鏡橋で、ダブルアーチです。

実は小生、自転車が岩本橋目前という地点でパンク。以後、自宅に帰るまで、自転車を押して歩くこと約2時間の目茶旅となりました。

最近は、町の自転車屋さんとか、バイク屋さんが減って、パンク修理もままならず、ついに我が宿舎まで押し歩きせざるを得ませんでした。

経済が効率的になることは、旧来の人間生活に不便を来たすのだなあと、しみじみ実感したことでありました。

大蛇山祭-イマケン

  • 2014年10月26日(日)
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国体ですよねえ。

長崎にいれば今頃体育館に駆けつけていたのに。
7月に転勤しちゃって、惜しかったです。

さて、「三池」の語源といわれる三つの池の話を先日書き込んだところですが、今日は「大蛇山祭」のお話しを。

「大蛇山祭」は、大牟田最大の祭です。(8月に開催)
熊本なら「藤崎宮秋の例大祭」、長崎なら「おくんち」のようなものです。

祭の主役が「大蛇山」。この大蛇とは、以前紹介した三池の伝説に基づきます。すなわち、お姫様が、大蛇の人身御供に差し出されたとき、大ツガネが大蛇を三つ切りにしたという、あの大蛇らしいのです。

山車が前に巨大な大蛇の頭、後ろに尾をつけて、踊り手を引き連れて街中を練り歩きます。市内の一番の目抜き通りを。夕方から通行止めにして、大いに盛り上がります。

昼間は町内会などを練り歩いて寄付集めをするのは長崎くんちと同じようなやり方ですね。

山車は丁度、大阪の「だんじり」の山車の装飾を取ってシンプルにしたようなもの。

その中に囃子方が乗って鉦太鼓で囃します。屋根の上の男衆が盛り上げ役。大声と花火(おくんちのような爆竹ではなく、火を噴く花火です)で後に続く踊り子や聴衆をあおります。

大蛇の頭は、左右に首を振りながら、口から花火を吹き出します。

大蛇山の起源は、三池藩の宿場町であった三池本町と三池新町の「弥剣神社」の氏子によるものが本家本元で、これにならって大牟田市街地の弥剣神社、諏訪神社、大牟田神社などでも大蛇山を出すようになりました。

これらの伝統ある6つを、「六山」と呼んで特別な存在です。

1日目は本家六山の大蛇山の出番、2日目は周辺にできているその他のいろんな大蛇山の競演です。南関町など周辺他市町からも来ていました。

そして、「かませ」。子供の頭を大蛇にかませると、無病息災という風習で、丁度獅子舞にかませるのと同じようですね。(正式には、六山のみが「かませ」と呼ぶのであり、他は「子孫健康」などと呼ばなければいけないらしい。)

最後は、本拠地に戻り、せっかく作った大蛇の頭やしっぽは解体して、お客さんがもらって行く。もらった人は縁起が良いということらしいです。

というわけで、大蛇は毎年作るのだそうです。また、そのデザインは、各山によって特徴があるのだそうです。
何はともあれ、大蛇山の時期、関係者は仕事も手に付かぬ盛り上がりのようです。

清水寺-イマケン

  • 2014年10月26日(日)
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清水寺といえば、京都が有名ですが、福岡県みやま市瀬高町にもあります。

しかも、天台宗の開祖である最澄が中国からの帰り、不思議な光に導かれ、有明海から清水山の霊木を発見。その霊木を彫って2体の千手観音を完成させ、1体をこの地に、もう1体を京都の清水寺に安置したそうな。

ということは、京都の清水寺と瀬高町の清水寺とはいわば兄弟のようなもの。

実は、最初あまり詳しい知識がなく、何か名所になっているようなので、妻と三男が大牟田に車で来たので、暇だからちょっと行ってみようかなと、軽い気持ちで出かけましたが、なんとこれが大当たり。

思ったよりも大きな古刹で、やはり最澄の時代から続く大きなお寺さんです。

清水山の下のほうに、まず、清水寺本坊庭園というのがありますが、これが非常によく手入れされて実に見事な庭園です。その様式から、雪舟の作ではないかと言われています。

もみじの木が多いので、紅葉時期はものすごくきれいと思われますが、まだ早い。でも、静かな縁側に座って庭園を見ると、借景の清水山、樹木、岩、心字池、苔むす庭、そしてラッキーなことに今が盛りのツワブキの黄色い花。この静寂、自然美、実に心が洗われます。

入り口に拝観料300円を入れる箱が置いてあり、自由意志で入れればいいのですが、決して後悔しない。

絶対一見の価値があります。紅葉の時期にも是非来たい。

庭園の上には仁王門、山門、三重塔、本殿などが続くのですが、それらのいずれにも迫力と風情が感じられます。

周辺も掃除・手入れが行き届いています。(有料庭園の手前の、そこだけでも十分に美しい庭で、二人の女性が手作業でコケの手入れをしていました。こういう細かな作業を常時行っていなければ、あの広い寺域全体にいきわたる手入れはできないでしょう。)

あちこちに、やはりツワブキが配置されて黄色の花が、控えめながらも美しく咲き誇っています。生まれて初めてツワブキの花を美しいと思いました。

他に、サクラやツツジ、ボタンなどもあり、四季を通じて美しさを観賞できそうです。

機会があれば皆さんも是非ご覧ください。

なお、帰りは「道の駅みやま」で、テレビで有名になった「玉めし」(中に半熟卵1個がまるまる入った、鶏肉のない鶏めしのおにぎりみたいなもの)を買って帰りました。

気迫、キレ、緩、急、残身-イマケン

  • 2014年10月19日(日)

テレビを見ていたら、小学2年生の空手をしている女の子の話題を流していました。そのクラスの日本チャンピオンです。

お兄ちゃんにつられて空手を始めたのですが、みるみる上達し、今年全国大会2連覇を果たしました。(お兄ちゃんも日本トップレベル)

でも、驚くのはその集中力、気迫、ワザのキレ。
とても2年生の女の子とは思えません。

You Tubeでも見れるようですから、興味のある人は探してみてください。

とにかく、テレビにひきつけられました。まず、目の力。上目遣いのいわゆる三白眼ですが、その迫力で引き込まれます。(そんな眼をする人は大人でも普通いません。)

種目は「形」なのですが、演技が始まると(というかその前から)、完璧に世界に入り込み、迫力をもって、緩急をつけたワザのキレ、そして、キメのワザに発する裂帛の気合と、後の残身。

とにかく、見るほどにひきつけられます。(空手の指導者も、初めて来たときから集中力が違っていたと言っていました。)

そのように大変感動したわけですが、思えば、バスケに通じる部分もあるのではないでしょうか。

まずは「気迫」。これは他のスポーツでも同じでしょうが、見ただけで気迫が伝わるようなプレーであれば、それだけで相手にプレッシャーを与えると思いますし、自分も実力以上を発揮できるかもしれません。

そして、キレと緩急。ワザの動きは速ければ速いほうがいいと思いますが、「緩」と「急」を使い分けることも必要かと思います。たとえば、ゆっくりとドリブルをつきながら、すきを見て素早くシュートを打つとか、素早いパスやドリブルを行いながら、一瞬、間を置くことにより相手のすきを誘うとか、また、最後のキメであるシュートを打った後のフォロースルーは武道で言えば「残身」ですが、一連の流れの最後は綺麗に残身が決まるはず。

これも流れの中で必要なものだと思います。

前提としての「気迫」、ワザにあたっての「緩」と「急」、そしてその後の「残身」は、色々なスポーツにおいて、重要だと思います。

修正しました-イマケン

  • 2014年10月19日(日)

すみません。
世界遺産関係の記事に間違いがあ1りました。

三池港の推進者は「團伊玖磨」ではなく、「團琢磨」。伊玖磨は琢磨の孫で、有名な作曲家です。

「原貢」氏は、大牟田出身でなく、「佐賀県」鳥栖市出身。鳥栖工業高校→立命館大→東洋高圧椛蝟エ田(現三井化学)の実業団野球。

世界遺産候補(その1)-イマケン

  • 2014年10月13日(月)

世界遺産候補を巡る大牟田お散歩日記です。

まずは、坑口巡り。
坑口とは、炭鉱への出入り口です。

【宮原坑】

大牟田市の南東部にあります。行ってみたら、綺麗な駐車場ができていました。そして、廃墟のようなレンガ造りの建物と巨大な鉄鋼製のヤグラがありました。管理事務所みたいなのがあるのですが、無人。どうも開設日は限られているようです。あまり親切ではないかな。

この建物と巨大ヤグラは、明治時代の炭鉱に導入された蒸気機関の巨大ウインチの施設です。

他の炭鉱では人間がしゃがんで動かざるを得ないような細い坑道でしたが、三池炭鉱の炭層は大きかったので、人が立って歩くどころか馬車も出入りできるような大きな坑道でした。

そこで、蒸気機関で動く大きなウインチ(鉄鋼製のケーブルを巻き取ったり、払いだしたりする装置)を設置して、石炭や資材をそのウインチで出し入れしていたようです。

【宮浦坑】

こちらは大牟田駅から北東にちょっと行ったところにあります。先日書いた「サンマ祭」のあった工場の近くです。

ここの特徴は小さな公園になっていること、煙突があること、掘削機械、トロッコが展示してあることです。

「炭坑節」に、「月が出た出た 月が出た ヨイヨイ 三池炭鉱の上に出た あんまり煙突が高いので さぞやお月さん 煙たかろう サノヨイヨイ」と歌われたあの煙突がこれだと、説明書きがあります。レンガ造りの巨大な煙突が綺麗な形で残っています。

掘削機械やトロッコに関していえば、明治時代のものではなく、多分昭和時代のものでしょう。石油や電気を使ったものですから。(明治時代は手掘りです。)

でも、なぜ煙突があるのか。私も最初、わかりませんでした。

調べると、炭鉱の坑道の中で石炭を焚いて蒸気機関を動かしていたのです。蒸気機関のポンプで炭鉱に出てきた水をくみ出したりしていたそうです。また、その煙突から温まった空気を排気するときに、ついでに坑道の中にたまった汚れた空気も上昇気流で一緒に排出する効果もあったそうです。

なお、炭坑節の元歌は、筑豊炭鉱(毎年春に、トライアンフの参加する「ぼた山杯」の行われる飯塚市周辺です。)の作業歌で、それが旦那衆の通うお座敷歌になり、レコード化されて流行歌になる過程で、炭鉱として有名な「三池炭鉱」のものとされたが、元は三井鉱山の筑豊炭鉱の煙突を指していたらしい。

【万田坑】

こちらは、(福岡県)大牟田市ではなく、隣の(熊本県)荒尾市にあります。大牟田市の南西、荒尾市の北東部です。

要は三池炭鉱は大牟田と荒尾にまたがっていたのです。三井鉱山三池炭鉱の社宅も両市にまたがってあり、同じ経済圏です。

万田坑は、最も施設が充実しています。資料館もあります。ボランティアガイドもいます。施設も、建物がかなり残っていて、炭鉱の人々が実際にどのような建物にいたのかがわかります。巨大な鉄鋼製ヤグラ(例のウインチ)の機械室とかもきちんと残っていて見学ができます。

この万田坑では、この夏、映画「るろうに剣心」(実写版)が撮影されたので有名になり、見学者も増加。小生が行ったときも、コスプレの若者が数名訪れて、記念写真を撮っていました。・・・・薄暗い施設の中に突然見えたので、正直どっきりしました。

【鉄道敷跡】

宮原坑跡の周辺にレールはなくなったが、明らかに昔レールがあったなと思える場所が確保されています。
また、万田坑に行く途中にもそういう場所がありました。

これが「鉄道敷跡」です。あちこちに分散された坑道から掘り出した石炭を積み出し港まで運んだのが専用鉄度です。もちろん蒸気機関車。これら鉄道敷跡も世界遺産候補になっています。

【三池集治監跡】

これは、世界遺産候補ではないのですが、宮原坑跡に行く途中にあります。と言っても、一部外壁のレンガ造りが残されているだけなのですが。

それは県立三池工業高校の外壁の一部に残ったレンガ塀です。

三池炭鉱の石炭掘りは過酷な作業であり、この作業に明治時代、囚人が駆り出されたのです。その囚人の集められた施設の跡です。

ちなみに、巨人軍の原辰徳監督の父上、原貢氏は佐賀県鳥栖市市出身。ノンプロの東洋高圧大牟田(現三井化学)で活躍し、三池工業高校の監督として甲子園で全国優勝させました。(その後、東海大相模へ転進)

世界遺産候補(その2)-イマケン

  • 2014年10月13日(月)

さて、三池炭鉱の世界遺産候補を巡るその2です。

各坑道から集められた石炭をどうやって外へ移し出すか。

最初は、大牟田川という川の河口(大牟田港)に集め、そこから小さな船に積み込んで長崎県島原半島の口之津港へ運び、そこで大きな船に移し変えてよそへ積み出していました。

【三池港】

そこで、三井鉱山の事務長 團琢磨は考えました。炭鉱はいずれ掘りつくすが、港湾は永久に残る。その思いで、辞表を胸に、反対者を説き伏せて三池港の造成に突き進みました。

遠浅で港に向かない有明海だが、そこの土地をまず埋め立て、そこを掘削し、航路も掘り込んで、正直無理やり作った港です。

そして、干潮時にも大丈夫なように、「閘門」という独特の施設を作りました。満潮のときに船を入れ、ゲートを閉めて、潮が引いても船は自然の潮位に関係なく荷役ができる。

そして、石炭積み出しのために、各坑道から専用鉄道により集めた石炭を貯蔵し、船に自動的に積み込むコンベヤシステムまで完備したのです。

かくして、世にもユニークな港「三池港」が完成したのです。

【旧三池税関支署】

三池港の片隅に、古風な木造の建物があります。

旧長崎税関三池税関支署です。

三池港の貿易とともに過ごしてきた建物ですが、コンクリート造りの新港湾合同庁舎完成後は、忘れられて、三井鉱山の現場事務所等として利用されていましたが、今回、2億円の工費をかけて綺麗に修復されました。

明治時代の税関庁舎が残っているのは全国でも珍しいようです。

【三角西港】

大牟田港の石炭積み出し港の補助港として長崎県口之津港が活躍したことを書きました。それと同じ任務を担ったのが、三角港(西港)でした。

当時の熊本県は、熊本市周辺に港を作って発展させたいと願ったのですが、白川と緑川にはさまれて堆積物の多い、しかも、遠浅の地形では無理。外国のお雇い技師ムルドル氏が最適地として目をつけたのが、三角西港でした。

そこで、急峻な山が迫る宇土半島にまずは道路を開削し、その先端の潮の流れ早い三角に港を造成する難工事(ここでも、難しい仕事に囚人が使われました。)。苦労の末に完成したのが、明治の三大築港と称される三角西港でした。三大築港とは、宮城県野蒜港、福井県三国港、そして三角西港です。

現在、当時の形を忠実に残しているのは三角西港だけなのです。付帯設備も含めた石造りの明治時代の港湾設備が完璧な形で残されています。

三池炭鉱-イマケン

  • 2014年10月13日(月)

お散歩日記で、世界遺産候補の三池炭鉱関連の施設を巡ったことを書こうと思います。

そこで、まずは、三池炭鉱についての基礎知識を書いておこうと思います。

まずは、明治時代以前・・・室町時代のことです。

ある農民が、山で焚き火をしていると、岩が燃え出します。これが三池の石炭発見のはじめです。そして、周辺住民はこの燃える石を日常的に燃料として使っていました。

江戸時代に入ると、周辺の石炭は藩営となります。北は柳川藩、南は三池藩。
当時の主な用途は、瀬戸内海で盛んな塩田の燃料でした。

明治時代に入り、石炭のみならず鉱物資源は国家の所有物とすることになりました。

三池炭鉱は、明治政府の管理下になり、工部省の出先機関が管轄します。(後に農務省、大蔵省と変転。)

この頃の用途は、従来どおり塩田と、明治政府が外国から技術導入した官営工作所(たとえば富岡製糸場のような)の蒸気機関の燃料でした。

とはいうものの、国内でちまちました商売をしているだけでは、あまりうまみのない事業でしたが、政府は新たな儲け口を見つけます。

三井組(後の三井物産)にまかせた三池炭鉱の石炭を当時、香港で需要が急増していた蒸気船向け燃料として輸出することです。これが大当たりして、三池炭鉱の繫栄を築きます。

やがて、官営による過保護に対する批判が大きくなり、三井組に払い下げられ、完全民営化されます。

次からは、世界遺産候補の施設めぐりです。

三池宮-イマケン

  • 2014年10月04日(土)
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大牟田お散歩日記です。

そもそも「大牟田市」なのに、炭鉱は「三池炭鉱」だし、港の名前も「三池港」。なぜなのか?
それは旧藩名が「三池藩」だったからでしょう。

で、「三池」のルーツを見に行きました。

大牟田市役所の南東の方角に「三池山」という山があります。
また、東北東に「三池町」という町名があります。
このへんを南北に通る道を「三池街道」といい、南関―三池―高瀬―柳川を結ぶ道があったようです。

つまり、現在の大牟田市街の東方の山際に、旧三池藩の城下町が栄えていたようなのです。海岸線も今より大分内陸部にあったのではないかと思います。

まずは三池町。なんとなく、宿場っぽい感じの細い路地や蔵などがありますが、あまりそれらしい古い町並みが多くは残っていないのが残念です。

少し南へ下って、三池山の入り口へ。米の山という所から三池山へと向かいます。

まず、紹運寺(じょううんじ)が。これは三池藩の藩祖である高橋紹運(大分の大友家の家臣)の開いた寺で、歴代藩主の墓がある。我が家と同じ曹洞宗です。

その後、三池藩主は柳川藩の立花家の家系に引き継がれます。

しばらく行くと、普光寺。立花家が開いた寺で、臥龍梅という細長く横に延びた梅の木があり、大牟田で一番有名な寺です。

これを横目に見て、いよいよ三池宮への山道へ入ります。

標識によると、宮まで2km弱なのですが、ガイドマップに「急な山道」と書いてあるとおり、石がごろごろ(しかし、この石はどうも、人が土止めのためのように置いた感じです)の心臓破りの坂道が続きます。無理をせず、ゆっくりと1時間ほどかけて登り、ようやく「三池宮」に到着。

さほど大きな宮ではありません。「毎月五日と十五日にはお神酒を提供」と書いてありました。次はお神酒をいただきたいな。

そして、目的とする「三池」のルーツである三つの池はありました。三池宮のすぐ下、「白竜宮」という小さな社のまわりに、小さな池、三つ。いずれにも御幣がさしてあり、神聖な場所扱いです。

伝説によれば、お姫様を大蛇の人身御供に差し出して、まさに大蛇がお姫様を飲み込もうとしたそのとき、お姫様がかわいがっていたツガニの精か、大きなツガニが現れ、そのハサミで大蛇をチョキン、チョキンと三つ切りにし、その蛇体が地べたでのた打ち回った跡が三つの池になった。これがすなわち「三池」の語源だという。その中のひとつの池は底なしで、有明海につながっており、決して水のかれることがないという伝説もあり、雨乞いの神様でもあるそうな。

というわけで、本日のルーツ探しの目的達成。

下りは、いわゆる膝がわらう状態で、大変。体力不足です。

でも、昔の三池の山城はこのへんにあったらしい。こんなところにあったら、そうそう簡単には攻略できませんわな。

ま、そういうことで、とりあえず「三池」のルーツを見ることができました。

そのほかにも、いくつか見るべき寺社があるので、今後も何度か足を運ぶつもりです。

そのときはまた、レポートします。

では、また。

(写真は三つの池のひとつ。はっきり写ってないけど柵の向こうに池が・・・)